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森 繁哉、堀内 公子、前田 勇、山村 順次、猪熊 茂子、早坂 信哉、後藤 康彰
日本では温泉の存在と効能は古くから認められており、治療目的で頻繁に利用されていました。温泉利用に関する現在する最古の記録は8世紀前半に編纂された『風土記』であり、『出雲風土記』には出雲の国造が天皇の御世を寿ぐ詞を奏上するにあたり朝廷に向かう時、潔斎して清めるため、忌部の神戸という地域を訪れたという記録があり、温泉利用の歴史は古代にまでさかのぼるとするのが定説です。
平安時代における湯治は、仏教の渡来と沐浴の功徳に関する教えの影響によって、治療を目的とした利用が多かったのですが、鎌倉時代から室町時代になると、公卿や武将の長期休養や治療としての意味が強くなりました。仏教が広く社会に広がった鎌倉時代になると施浴や薬湯が盛んに行われており、室町時代には温泉などでの入浴及び治療を意味する「湯治」という言葉が生まれました。「湯治」は、平安期までは蒸し風呂での発汗浴および水や湯、海水につかる水浴全般を含めた意味で用いられていましたが、鎌倉期以後は専ら温泉浴のみを指すようになり、現在の辞典的意味に近い意味で用いられるようになったとされています。
庶民が旅に赴くための基本条件が整えられていなかった江戸期以前においては、遠方の温泉を訪れることは限られていましたが、温泉地域周辺に住む人々のには”骨休め”をする風習があり、たとえば、農民は農閑期を、魚民は出漁前や出漁後の数週間を利用して、温泉で身体の疲れをとるなど、まとまった期間の休養をすることもみられたとされています。
江戸時代以前においては、交通条件の悪さとともに、各地に乱設された関所や港での関銭・津料の負担が大きかったなどの理由もあり、旅は容易なものではなかったとされています。しかし江戸時代に入ると、政治的・社会的安定を積極的に図った幕府の努力によって、宿場整備や東海道をはじめ五街道などの主要交通路が整えられるようになりました。また、新田開発による耕作面積の増加、商業の活発化、都市の発達などによって、一部にせよ経済的に豊かな人々も現れるなど、旅をするため基本的な条件が大きく整ってきました。このような社会的条件の変化によって、大名や上級武士などの支配階層だけでなく、富裕な商人なども個人的旅を行うことが可能となってきました。
さらに江戸中期以降になると、農民や町人層の庶民の旅も活発になります。江戸期は農民を土地に縛り付けていた社会と言われていますが、それは、関所の取締りが人々の移動の障害になっていたこと、女性の杜寺参詣などの旅に対して厳しい制限があったことに対する表現であり、農民でも届け出を出して、許可を得れば旅は可能であったとも説明されています。確かに、庶民が一定以上の距離を移動する場合には、一種の身分証明証である「往来手形(往来切手とも言われた)」を檀那寺(過去帳を預け、仏事を頼む寺)や町役人から交付;してもらう必要があったものの、伊勢参宮に代表される杜寺参詣と病気療養を目的とした温泉への湯治旅行の場合は比較的容易に入手することができました。
湯治が一般化し、盛んになるのは江戸中期以降でありますが、庶民も治療や療養のため温泉へ出かけることも次第にみられるようになりました。当時は農閑期あるいは休漁期を利用し、治療や保養のために訪れる場合が多く、温泉地での滞在は3廻り(1廻りは7日間)あるいは4廻りの長期滞在が基本となっていました。温泉場には宿泊施設と共同浴場がありましたが、それ以外にも長期滞在客の娯楽や便宜を図るための施設などが設けられている温泉地もありました。
江戸後期になると、旅の目的や形態にも変化が現れ、信心や病気治癒のための旅行が許可が得やすいことを利用し、杜寺参詣や湯治を建前とする物見遊山が盛んになったのがその代表的なものです。また、江戸後期の旅の特徴として、社会的弱者の立場におかれていた女性が以前よりは容易に旅に参加するようになったことも指摘されており、女性の旅の圧倒的多数は自らの意思に基づいた自発的なものであり、さらに神社仏閣参詣に事寄せて出かける物見遊山の旅であったともされています。
江戸期における温泉湯治の実態と変化については、江戸から近いという立地条件から、早い時期から多くの人びとに利用され、まとまった期間滞在する人びとが利用する湯治場から、短期間だけ利用する人びとを対象とした観光型温泉へと変遷していくという過程を歩んだ箱根温泉を中心に考察してみましょう。
当時の箱根温泉郷は、湯本をはじめ、塔之沢・宮ノ下・低蔵・堂ヶ島などの箱根七湯から構成されており、中でも湯本と塔之沢温泉は湯量の豊富な温泉地として知られていました。湯本・塔之沢温泉に宿泊施設(湯宿)が整備されたのは17世紀後半(天和年間=1652~83年)であって、江戸をはじめ関東各地からの湯治客が訪れるようになりました(箱根湯本温泉旅館組合、2000)。当時の湯治客の多くは、味噌や米などを各自持参し、薪を購入し、米を炊くなどの自炊をしながら、ひたすら湯にひたる過ごし方をしており、病気治療や療養目的が主なものでした。
温泉での滞在期間は、現地で3廻りするのが通例であり、入浴回数は『箱根七湯の枝折(1975)』によると一般に1日に6・7回が限度であるとされていましたが、温泉ごとに効能が詳しく示され、湯本温泉は「脚気、すじけ(筋肉痛)、痔疾、たむし、なまず(皮膚病)、疝気、腰痛、しびれ」などに、塔之沢温泉は「中風、脚気、頭痛、打身、骨痛、痔漏、下血、賢虚、労咳、めまいなど」に効き目があると記されています。
温泉旅館が湯治を目的として訪れる人びとのために独自に工夫をする場合もあり、塔之沢温泉のある旅館は「うたせ湯」の一種である滝湯を設置し、利用者に対応していました。元禄7(1694)年7月に療養目的に塔之沢を訪れた医師藤本由巳は「この滝湯は中風に吉シ」と記しており、実際にも滝湯で癰腫(細菌による悪性のはれもの)の治療後の療養をしたことが記録に残っています(箱根湯本温泉旅館組合。)
江戸の庶民が活発に、遠くの温泉に湯治に出かけたのは、医療技術の未確立、さらに専門医療施設がごく限られているという当時の医療環境の中で、温泉が治療の手段として利用されていたからです。江戸時代中期以降になると、人びとは自分の病気に合う温泉を選び、適切だと思われる温泉を訪れて治療しようとする意識があり、さらに自分の症状等に適合する温泉を選ぶことができるほどの知識も有していました。
庶民が温泉に関する知識を持つことができたのは、親族や知人などによる意識の伝達に加えて、さまざまな温泉案内書や道中記などの情報源があったからです。当時の温泉案内書には、温泉の味・色・臭い、湯の華の有無、浴室の状況、1日に利用すべき回数から湯治の日数まで詳しく記されており、これを見て、自分の行きたい湯治場を選ぶことができました。このような案内書は、江戸後期には板版によって多く印刷され、温泉療養に対する情報がさらに普及されるようになりました。
江戸中期になると、温泉療養(湯治)の効能が当時の医学・薬学者から研究されるようになり、独学で儒学と医学を学んだ後、”百病を一気の滞留によって起こる”とする「一気滞留論」を唱えた後藤艮山(1660~1733)を創始者とする温泉医学研究が盛んになりました。艮山は、順気(=新陳代謝)を積極的に図ることこそが病気治療の根本であると考え、その観点から入浴を勧め、熊肝や半椒(とうがらし)の服用を推奨し、また灸の有効性についても力説しました。艮山の温泉医学研究は愛弟子の香川修徳(1684~1755)に引き継がれたが、修徳は聖道と医術とはその本を一にするとする「儒医一本説」を唱え、実験に基づいて医術を行うことの重要性を主張し、数百人の門下生が集まるなど隆盛をみました。
修徳は「儒医一本説」に基づいた医学書『一本堂薬選』を著しましたが(1729~38)、同書は上・中・下および続編になっており、『一本堂薬選・続編(1738)』では、温泉の効能と利用方法について体系的に詳術しており、温泉療法に関する最初の医学書とされています。このような専門書の出版によって、人びとの温泉効能に対する関心と信頼が急速に高まったことも温泉湯治を活発化させるきっかけになった理由であると考えられます。江戸時代とくにその後期において、庶民が移住地から離れた温泉地に赴き、湯治することが活発になっていた背景には、温泉療養の効果が信頼されており、各自が病症に合う温泉を選ぶことが一般的あったことがあげられ、旅を行うための基本的条件が徐々に整ってきたことによって、健康回復や増進を目的とした温泉利用が拡大したものと考えることができます。
江戸後期文化・文政期(1804~30年)になると、それまでの湯治の性格とは基本的に異なる新たな利用形態がみられるようになります。この時期になると伊勢講、大山講、富士講などの信者による”信仰団体旅行”が盛んになりましたが、それらは次第に「神仏に参るは傍らにて、遊楽をむねす(喜多村信節、1931)」という表現にみられるような、杜寺参詣こともに物見遊山を併せたものとなってきました。そして、東海道を往還する講集団の影響によって、箱根温泉郷を短期間(1泊のみ)訪れる「一夜湯治」が出現するようになります。伊勢参りの過程で立ち寄る人々に加え、参勤交代のため東海道を往来する大名行列による短期間利用が加わったことによって、箱根はそれまでの湯治場から賑やかな観光地へと、その様相を変えることとなっていきました。
「一夜湯治」の誕生には、五街道の宿駅を所管していた道中奉行が大きく関係していたとされています。当時、箱根温泉郷では、一週間単位で長期滞在する湯治客に対応するkとが原則であった箱根湯本温泉と、短期滞在(原則として1泊)の旅人を対象とする小田原宿との間に「一夜湯治の是非(宿場以外で旅人を宿泊させてはならないとする幕府の達しに反しているのか否か)」をめぐって鋭い対立が生じていました。この事案についての調整を求められた当時の道中奉行は、箱根湯本温泉側に「伝馬役代(交通・商業に係わるものに課した税の一種)」を納入することを条件として、「一夜湯治も湯治なり」との理由によって、湯本温泉が1泊だけの旅人を宿泊させること認めるとの裁定を下し、この旨の触れを出させました。
一夜湯治が認められたことによって、毎年6・7月頃には、湯本温泉には伊勢参りの団体客が毎日50・60組も泊まるほどの繁盛振りをみせるようになったとされ、伊勢参りの途中のみならず、江戸往還のついでに、温泉に一夜だけでも宿泊することによって、楽しみのための温泉利用が広がったともされています。「一夜湯治」が成立したことが、現在一般化している「温泉+1泊2食型利用」が立する契機となったとされていますが、江戸幕府が一夜湯治を認める裁定が下した経緯と意図などについて必ずしも明らかになってはいません。
江戸時代を通して多くの人々に親しまれ、温泉湯治の効能は、明治政府が1874(明治7)年に交付した「医制」によって公式には否定されることとなります。明治時代(1868~1912)を迎えた日本において、健康とかかわる旅行とくに温泉の位置と役割に大きな影響を与えたものに、1874(明治7)年の「医制」交付があります。 明治政府は政権を樹立すると直ちに、欧米諸国に視察団や留学生を派遣した
明治政府は政権を樹立すると直ちに、欧米諸国に視察団や留学生を派遣したり、外国人教師を招聘したりして近代的知識と技術の導入に力をいれましたが、その一環として、幕末期に西洋医学を学び長崎で医師として活躍していた長与専齊を文部省役人として登用、1871年に遣欧使節団随行員としてドイツ他で医学教育と医事行政の研究に従事させました。長与は帰国後、文部省医務局長に任命されると、初代軍医総監松本らの協力を得て、1874(明治7)年、衛星行政機構をはじめ医学教育、病院と医師、薬事などについて規定した「医制」を制定・交付しました。これは日本が最初に定めた医療制度でしたが、とくに重視したのが、ヨーロッパに習って近代医療制度を確立するための医学教育と医師の制度を明確化することであり、資格を有する医師によって行われる行為のみが医療であることを明文化しました。「医制」はその後、医師法、歯科医師法、薬剤師法、看護婦規則などが専門別に法制化されることによって解体されましたが、日本の医療制度の根幹を規定するものとして大きな役割を果たしました。
医制交付によって、医療としての条件に適合していない温泉療法は医療ではないとされ、湯治を中心とする温泉療法は伝統的民間薬(漢方薬)や「まじない」などと同列の”民間療法”のひとつとして位置づけられることになりました。医制交付後に各地の温泉に地域を所管する警察署を通して領布された温泉利用規定からは、かってのような各温泉の効能に関する記述は削除され、禁忌事項のみが記載されることとなりました。
医制が交付されて間もない時期に、明治政府の招聘を受けて東京大学医学部教授に着任したドイツ人医師ベルツは、近代医学の視点からの温泉効能等に関する研究および温泉の医療面での有効利用に関する進言も盛んに提出しましたが、温泉療養が正規の医療として認められることはありませんでした。
着任以来、四半世紀にもわたって日本に滞在したベルツは、温泉効能に関する研究のみではなく、活発な著作活動を通して日本の温泉を世界に紹介することにつとめました。とく草津、伊香保、熱海の温泉効能を高く評価するとともに、サナトリウム保養所の建設を勧めるなど、日本の温泉の発展に大きな役割を果たしました。ベルツの著述は国内の温泉事業者からも利用され、『東海・東山漫遊案内(1892)』に収録された伊香保温泉宣伝文hs、ベルツが著作『日本鉱泉論』の中で褒めていることを紹介しています。
医制交付によって湯治の医療的役割が公式には否定されたこととはかかわりなく、全国各地の温泉地は、従来の療養機能のみではなく、都市住民のための保養と慰安の場として認識され、鉄道を中心とする交通手段の発達とあいまって、利用者は増大し続け、滞在期間も次第に短くなっていきました。第二次世界大戦が終結した後、日本は急速に経済成長が進み、1950年代末になると「大衆消費社会」が成立しますが、さらに社会全般に余暇時間が増大したことを背景として、1970年代前半には「大衆観光時代」を迎えることとなりました。膨大な数と多種多様な温泉を有する日本にとって、温泉は国内観光の最大の資源でもあるとともに目的地であり、温泉利用は「宿泊観光地での行動」としても常に第1位を占め続けています。
現代では、1泊2日型の休養や観光を目的とした温泉の短期利用が中心となっていますが、一方には、農閑期などを利用した比較的長期にわたって滞在する、以前に近い形態の湯治も存続しており、また、温泉の泉質や効果を見直し、健康増進に効果的に活用しようとする”現代湯治”への関心も高まっています。さらに、リフレッシュやストレス解消を主たる目的として、3日程度の短期間だけ湯治を試みる”プチ湯治”と称される新たな形態も登場してきています。