〒959-1928新潟県阿賀野市村杉4632-8
TEL 0250-66-2111/FAX 0250-66-2151
MAIL murasugi@chouseikan.co.jp
これは昭和二十年に作られた小冊子です。仙台の岡千仭(岡鹿門)という幕末、明治の漢学者が書いた漢文の碑文を紹介したもので、前文は地元の荒木七之亟さんが書き、田崎仁義博士が監修したようです。岡千仭が主宰した漢学塾「綏猷堂」には全国から俊英が集まり、一時は三千人の子弟をかかえたといわれます。尾崎紅葉、北村透谷、片山潜などがその門下から巣立っていきました。 ここでは、開湯の歴史から、江戸時代は半農半湯治場の営業状況だったことを紹介。明治初期、苦労の末に遠藤七郎が新浴場を開いたものの、周囲の理解が得られず、新浴場を焼き棄てるという意見まで出ていたようです。その後、ラジウム発見時は含有量が全国二位とされ、そのおかげで年間十万人を超える客が押し寄せたことなどが記載されています。
「村杉温泉場ノ開祖ヲ按ズルニ、元弘建武ノ交名名護屋尾張守ノ家臣荒木正高仕禄ヲ辞シ戦乱ヲ避ケ医師木村某、従者川上某ヲ伴ヒ諸国ヲ流浪シ、偶々此地ニ来ル、建武弐年四月朔日 瑞夢ニ感ジ同七日一霊泉ノ湧出スルヲ発見ス、依テ此処ヲ永住ノ地ト定メ、植林農耕ヲ営ミテ以テ生業トナス、是ヲ本温泉部落ノ開祖トス。 以来六百有余年同族繁衍(ハンエン=ふえひろがること)シ、当地ニハ荒木氏三十余戸木村氏川上氏各二戸アリ、外ニ笹岡郷亀田郷等ニ移住セルモノ百三十余戸ノ多キニ及ブ、後温泉ノ卓効広ク世ニ知ラレ来リ浴スルモノ日ニ多キヲ加フ。 然ルニ固ト農ヲ主業トシ傍ラ浴客ノ乞ヲ容ルルモノナリシヲ以テ各戸備フルトコロ素朴ナル家庭用浴槽ニ過ギズ、且ツ五町余離レタル泉源ヨリ鉱水ヲ人肩ニ担ヒテ各家ニ桶搬スルノ不便ヲ忍バザル可カラザリキ。
明治ノ初、維新勤皇ノ志士北辰隊長タリシ遠藤七郎昭忠氏養痾((ヨウア=病気療養)ノ為メ此地ニ来リ深ク斯ノ不便ヲ認メ、泉源ノ周囲ヲ拓キ大浴場ヲ設ケ客館ヲ建テ以テ浴客ニ便センコトヲ念ヒ篤ク村人ニ説キシモ区々決セズ、氏茲ニ於テ断乎異論ヲ排シ汽缶(キカン=ボイラー)ヲ大阪ヨリ購入シ来リテ新浴場ヲ現地ニ開ケリ、時ニ明治八年仲夏也、而モ此際氏ノ説ニ賛同シ新館ヲ設ケタルモノ六七戸ヲ出デザリキ、久シカラズシテ新装ノコト遠近ニ傳ハルヤ浴客日ニ増盛セリ。 然ルニ新旧両論尚ホ争フテ容易ニ解ケズ、翌々十年ニハ新浴場焼棄論マデモ議セラルルニ至リシモ諒解遂ニ成リ、館閣相踵デ新築セラレ今日ノ殷賑(インシン=にぎわい)ヲ見ルニ至レリ、是実ニ先見果断ノ士遠藤氏其ノ人ノ賜ニ外ナラズト云フベク、里族浴客豈皆其ノ徳ヲ仰ビ其ノ澤ヲ謝セザルベケンヤ。
大正三年当鉱泉含有ノ「ラヂウム」其ノ量ノ多キコト本邦温泉中五指ノ中ニ位スルコトノ明瞭セラルルヤ、浴客頓ニ激増シ年十萬ヲ超ユルノ盛況ヲ呈セリ、恰モ此歳故遠藤氏ハ会テ 明治維新ニ際シ農兵ヲ以テ北辰隊ヲ組織シ自ラ之ヲ率ヒテ皇師ニ尽シ奉リシ功績ヲ録セラレ贈従五位ノ恩典ニ浴セラル、亦以テ奇縁ト云ツベキ歟。 茲ニ氏ノ知友仙台ノ名儒岡鹿門先生先ニ氏ノ為メニ記セル村杉温泉郷ノ一文ヲ掲ゲ所録ノ委曲ヲ補ヒ永ク後昆ニ示サント欲ス矣。 村杉温泉碑
越後蒲原郡村杉温泉、原為山間僻邑、游者寥々、其一変為勝幸、以本隊属長藩、衛東京、以功班士籍、賞黄金廿枚、賜禄若干、有命解隊、君之属干城隊、深結前原一誠、一誠挙事、 君連坐繋獄、自此漸無意当世、以文墨浪游四方、後住新潟、廿五年一月七日客死于東京、君甞養痾村杉温泉、嫌館舎隘陋、請村姓荒木川上木村三氏、除榛莽、開里閭、而村姓或発異議 阻之、君毅然排斥、為興巨工、浴室澡館、連宇接棟、四方相傳、游客麕至、先発異議者、亦仰食泉業、各得其所、君所区画、益公衆、験後日、往々類此、夫君奮起草莽、編郷兵、属 官軍、功於王事、如斯之卓、而坐事累繋、家産蕩盡、資格剥奪、至鬱々客死、知君平昔者、誰不為ノ惋惜乎、而村杉村人、徳君開創、樹碑以傳、可以少慰於泉下也、因紀其家世、及住年所親於君、為温泉郷、以諗後人、
仙台 岡 千仭 撰文
昭和廿年十月
七十八翁 荒木七之亟 謹誌
経済学博士 田崎 仁義 修訂
(※一部、旧漢字を新漢字にしました)
出典:開湯700年へ 越後村杉ラジウム温泉 奇跡の「温泉力」より